嫌なものを隠す。

昔読んだ本の中で、養老猛司氏が『陰の悪事を隠して、建前の綺麗事を声高に叫ぶ風潮が蔓延しだしたのは、水洗トイレが出来た頃から』と書いていたのが真理を突いていると実感します。 

昔のトイレは汲み取りで、どんなに綺麗な人もウンチをする事を、実生活の中で誰もが子供の頃から肌で感じていました。 

そして思春期の頃、祖父や祖母を見送る中で母が二人の下の世話と後始末の様子を見て、汚物への嫌悪感と祖父や祖母への慈愛の気持ちとの矛盾を味わい、葛藤して受け入れた時、相手の嫌な部分も含めて人を愛する気持ちが芽生えた様な気がします。 

水洗トイレでは人差し指一本で汚物を流し、何事もなかったような顔で出てきて、そんな汚物(最近は匂いも消す)と自分は縁がないようにやり過ごすことが習慣になってしまったのが現代です。

その延長で良い人を装い建前で物事を言って、陰で悪事を働く人が増加したと養老さんは言っているのです。

お金に関する知能犯的悪事は職種を超えて、圧倒的にいい歳をした大人や年寄りが多く、普段は立派な人を演じています。 

若者は派遣やアルバイトが増えて、正規社員になっても無言の『お前の代わりは何ぼでもいる』の雰囲気でサービス残業が当たり前の道具にされている方が多くなり、オレオレ詐欺などは働いている若者より働いていない年寄りの方が豊かな状況への下剋上に私には見え、戦国時代と重なります。

資本主義は資本家に有利なシステムですが、最近は搾取の行き過ぎで抑圧されたエネルギーの行き先は、思考訓練ができてない人達は暴発、中途半端に頭が良いのは詐欺です。

犯罪者の精神分析医が書いていたのですが、犯罪者の心の奥底に『こんな酷い目にあって来た自分には、これくらい当然の権利』という意識を大多数が持ち、脳科学的分析では人間の一番の機能である『前頭葉の血流不足が凶悪犯罪者に顕著』とあり、犯罪も環境と教育が背景に有ります。

私の父は、人を支配する事でしか自分の強さを確認できない弱い人でしたが、死後子供として親の汚点とも向き合い、葛藤し続ける事も子供としての役割で、そんな行為の先に育った文化の中で沁み込んだ、自分の中に有る醜いものや汚いものも見続ける義務が待っていました。

トイレ文化の進歩だけでなく、生活の異常な清潔志向の進行は『生身の人間の体臭まで嫌悪し、香水だけでなく衣服や病気のサインの口臭までも人口の匂いに』企業の金儲け宣伝を咀嚼もせずに丸のみしています

子供がウンコという言葉が好きなのは、汚物を排泄して生きている自分を受け入れる葛藤(生まれてからの初体験は全て嫌悪です)と、建前でものを言って都合の悪いものを隠す大人への皮肉を無意識に楽しんでいるような気がします。

私はそんな偽善に直面すると、陽水の『本音を隠し建前飾り、笑いは逃げの切り札・・・その行き着く先は土壇場です』と社会を皮肉った歌詞が頭に浮かびます。 物は豊かになっても絆が弱くなって行く不安を誰もが抱えている今の状況の根本原因に、嫌なものを見えなくした(臭いものに蓋)事が有ると思います。