人称的思考。

最近は同じ事をしていても体に変調を感じることが増え、いずれ迎える終末を思います。 

二人の生活になり、揃って元気で平穏な同じ繰り返しの瞬間に『これが幸せ』と実感することも多くなりました。 

十年程前から私の役割は妻の忠犬と番犬みたいなものと思うようになり、では果たして妻は? と考えると、家事以外は水泳・卓球に週三回程出ているので、放し飼いの野良犬みたいなものか? と思うようになりました。 

自営業の私はいつも家におりますので『女房留守でも元気がいい』とうそぶいておりましたが、家族はそれぞれが八割程の自由を持っていて、二割位の共有で重なっているのが理想的と思って過ごしております。 

そんな状況で妻は店の事はほとんど判らないので、『お父さんに何か有ったら店は閉めることになるので、私が先に死にますよ』と常々言っております。 

とりあえず『お見送りします』と言ってはいますが、私個人の生と死を一人称で考えると、出来れば先に逝きたいが正直な本音です。 

しかし妻との二人称で考えると、店の後始末もせずに約束違反で先に逝くのはやはり不本意で心残りです。 

そして娘達やお客様への三人称で考えると、果たさなければならない役割が沢山浮かんできて、『自分自身を大切にしければ』と胸に刻みます。 

現代社会の問題は、個人の欲望が肥大して逆に孤立が深まり、心の本質的な部分の砂漠化が異常に進み、人に対しての考え方がもっと冷淡な無人称化しているように思います。 

私も様々な出来事を、冷たい三人称の視点で見ている事を自覚しハッとしますが、人を道具に使う無人称的思考の企業や事件の増加は異常で、今は逆に暖かい三人称の視点で考える人情を取り戻す瀬戸際ではないか? と思います。