オシャブリからの始まり。

誰もが幸せになる事を目的に生き、その手段として働いていますが、幸せを感じる価値観が多様化し過ぎて手段が目的化されている事に気が付いていない人が増えたように思います。

その幸せの多様化に大きく影響しているのが、成長過程の最適な時に最適の玩具に触れることが必須と思います。

人は生まれてから様々な楽しみの玩具を求めて生き、その年代ごとの玩具に満足する経験をする事が大切で、その時期しか出来ない経験の満足感が心を豊かにし、その満足感が次の段階に向かう力になっています。 

オシャブリから始まり・積み木・自転車・携帯・車・恋愛・家や趣味も極論すると玩具では? と私は思っています。  

東京で会社の寮で生活していた頃、良く働き節約して家を買い(人に貸して収入にする)、日曜日も遊ばずに働き常に老後の生活設計をしている後輩がいました。

若い時にしか経験できない事を犠牲にして得た財産や資産の限界と虚しさへのリバウンドで、その後過去を取り戻すように遊び始め家庭が崩壊したことを聞きました。

人間を支配している脳が、あの頃にあの玩具で遊んだという記憶の喪失感に苛まれると、真面目一徹が浮気をしたら本気になって家庭崩壊まで行くに似て、時期遅れの大人になってからの方が歯止めが効かなくなります。

母乳から卒業してオシャブリになり、積木に夢中になってオシャブリから卒業するように、夢中と卒業を繰り返して成長し、大人になるのつれて操作対象が難解なものに変化して行きます。

その繰り返しの果てが思春期の恋愛のような、社会性が最も必要とされ操作が一番難しい人間相手に行き着くような気がします。

しかし近年この玩具としての欲しいものが、自分や家族の心を豊かにする『道具と認識して所有』するのではなく、『所有する事そのものが目的』になって、人間相手を嫌ってゲームのような機械相手になっているような所にも、大人になりきっていない人の増加を感じます。

私も妻や娘から『お子ちゃまだね』と揶揄されますが、好奇心は子供心を維持し、欲望をコントロールできる大人になるのが成熟した真の大人の姿と思います。 

そんな大人を増やす為に必要なことは、その年代に相応しい

オシャブリをいつも十分にしゃぶり、その時々の喜怒哀楽の経験を糧に、愛し愛され認められた確信を持って大人になって行くことが、挫折や傷ついた時でも後ろを見ないでこれからの先の人生を前を見て生きて力に繋がるように思います。