二十二年生きた猫・チッコ。

店頭で話していて感じる最近の傾向は、本音で物言う私に戸惑う人が増えた事です。 

本音を隠して建前でやり過ごす社会性が身に付いてしまい『なんだこいつは』と戸惑っているのが時々判ります。 

そんな現代の生き方の中で、人間は動物としての本能を失って行き、孤立し立ち往生して携帯・ゲーム・出逢い系サイト等のハイテク商品を通して埋めようとごまかし自爆している人達も増えています。 

私が思春期頃に我が家に来たチッコという名の雌猫は二十一年生き、十六歳位まで子供を生みました。 

自我が強く俊敏で真っ直ぐな猫で、鼠だけでなく雀も取って来て自慢げに見せ、発情期になると寄ってくる雄猫を威嚇して寄せ付けず、気に入った雄猫の所に出かけ三日程は帰らず、真っ黒な体になり身ごもって帰宅しました。 

私は元々犬猫をあまり好きでは有りませんでしたが、結婚後に自分自身が大人になってからチッコを愛しいと思えるほど好きになりました。

それは発情していても好き嫌いを大事にしている事でした。 お金の為や寂しさを紛らわす為に自分の体を売ったり買ったりの果ての事件の多さを思うたびに、チッコを思い出し『人間は畜生以下か』と腹立たしく思うと共に、物の豊かさが人間を変え、自爆行為に追い込んだのでは? と思います。 現代ではお金は生きて行く為に必要不可欠な大切なものですが、目的化してしまうにはやはり虚しいものです。 

人間として生きて行く上で一番大切なものは、人が好きな大切な人を守る時に本当の強さを身に付けられる『好きか? 嫌いか?』だと私は思います。 

自我を持て余した事件に触れる度、自我は好きな人や好きな事との繋がりを通してしか支えきれないものではないかと思うからです。

そのチッコが歳を取って十八歳位の時に犬にやられたのか? 

 お尻が噛み切られて帰って来ました。

私の実家にいたのですが、年齢的なものか? 誰も病院には連れて行かず可愛そうだったので見かねて動物病院へ連れて行くと先生が『年齢的に麻酔は使えないので、このまま手術をします』と言われ、大暴れして手術が終了しましたが、『傷口が塞がりそうになったら、この薬を傷口を開けて注入してやって下さい』と言われ帰って来ました。

一人で痛みで暴れるチッコを抑え注入しましたが手は傷だらけで後悔しましたが、治癒してから毎日実家から私の店舗に来るようになったのには驚きました。

あんなに痛い思いをさせたのに、チッコにも心が有ることを思い知らされ、死んだ時は私達の借家の庭の花の傍に埋めてあげました。