子供の人格を尊重する。

頻繁に起こる親子で傷つけ合う新聞記事を目にする度に、家族の有り方を見直す時期に来ていることを実感させられます。 

貧しい頃は食事も含めた全ての行為は手作りで、受け取る方はそんな手間を無意識に実感しながら、親の愛情を確認していました。 

高度成長頃からのお金万能社会の増強は、家庭の中のそれぞれの役割も楽で便利なものにしましたが、部屋もテレビも果ては食事も別々になり、結果的に家族をばらばらにする事に繋がりました。 

父親の給料も振り込みですので、受け取る時の『この人が働いているお陰』という実感も薄くなり、全てのことに相互関係でものを見る目が失われて行った要因にもなりました。 相手には義務と責任を求めて、自分は自由と権利を振りかざしても、何事も自分の視点からだけ眺めている人にとって、自分は間違ってないのです。 

夜なべをして編んで貰った手袋を通して母の愛情を感じ、その実感を通して母を大切にしようと決意したことは過去の事です。 

動物の中で人間の子供だけが長い依存の期間がないと自立できません。 

しかしその長い依存期間が言語や知能の発達を促し、文明や科学を発達させたのですが、皮肉にもその科学技術の進歩の豊かさが実は家族をバラバラにしたのです。

もっとはっきり言うとお金による豊かさを道具として認識せずに、豊かさの奴隷になった人達が多いと思います。

例えば女優のMさんの息子さんが覚醒剤で捕まり、大人になってもそこから抜けられないのは、母親からお金も家政婦さんがいて美味しい食事も与えられて育ちましたが『母親であるあなたから貰っていない』という喪失感です。

たとえ美味しくなくても買い物と下ごしらえの姿を通して、子供である自分の為に食事を作っている時間的行為そのものから愛情を受け取っているのです。

Mさんが稼ぐ金額で家政婦さんに任せた方がお金の効率は良いのですが、それでは母親の子供の為という無償の行為を通した愛情にはならないことを子供は肌で感じ取っています。

依存関係が長い人間の自立とは皮肉なもので、十分に依存できて満足した子供は、未練なく見事に羽ばたき自立して行きます。

逆に依存が不十分に育つと『まだもらっていない』という気持ちが無意識領域を占めて自立できないのだと私は思っています。

子供を『お前の為』と言う真綿で首を絞めるような偽善で支配しても、思春期になり『あんたの為だろ』と道具にされたことに気が付いた時、子供は親と言う地表に抑圧され続けたマグマのようになり、巨大に蓄積された抑圧は行き場を失い無差別に放出される時が事件になっています。 

子供は親の所有物ではなく、別な人格を持って生まれて来たことを自覚して育てる大切さをいつも思います。