閾値を超える。

店頭でお客様とお話をしていて、それぞれの知人に鬱病や自殺などの知人がいる時代で、不況以後の雇用形態の変化と共に格差の拡大は進み、社会の片隅に目を凝らしていると劇的に社会は変化しています。 

雇用形態と格差の問題は、一般的には豊かだった時代との比較で眺めていますが、実は企業間競争がグローバル化したことが遠因としてあります。

昔は町単位の競争が、交通網のスピード化とシステム化が進み、人と物流の移動が速く便利になったことに伴い、競争範囲が都道府県単位からグローバルな世界単位の競争になったことが企業競争を激化させた一番の理由です。

その競争激化の煽りが、企業負担の一番の経費である人件費削減に向いた結果が、パートから派遣・契約社員などと雇用が多様化したことに繋がっています。

この流れは止められないような気がしますが、ではそのような社会の中で人はどう生きるか? を今は迫られています。

生きる為の最低限の生活の収入を得る手段である雇用の多様化が格差を作り出している社会の中で、お金だけを目的にしていては際限のない蟻地獄になってしまうと思います。

家族が健康の時はその状況に感謝せずにお金を求め、大切な人が病気になったらお金を差し出しても健康が欲しいのが人の常ですが、何かを手に入れたら何かを失っているものです。

伴侶を亡くして一人になった人がよく口にする言葉が『自分の為にだけ作る食事はいいかげんになる』ですが、人は自分の為だけでなく、誰かの為に働けることに喜びを見出す不思議な動物なのだと実感します。 

そして自分を必要とし見守ってくれる人がいることが、生きて行くうえで人間が一番必要としているもので、その生活を維持する手段としてのお金と思うと、必要なお金にはおのずから際限があります。

人は安直を求めますが、安直には満足しないように出来ている矛盾に似て、お金への渇望に有限を自覚しないと、これからの社会では誰もが悩みの迷路からは抜けられません。 

活字に触れずにテレビで知識を獲得出来ると思う錯覚や、手軽なインスタントや栄養剤等で健康を維持しようとする錯覚も、お金への渇望に似て本人の心に充足感はないので自律神経が上手く機能せず、心や体の病になってしまいます。 

本当に貧しかった時代とは、今食べる物がない事で、そのまま寝るか、盗むか、乞食の様に恵んでもらうか、生きる事しか考えていなかったと思います。  

どうせ生まれたのなら今の時代も生まれも年齢も潔く受け入れて、楽をしても苦悩が有るなら自分の底力の閾値を試すつもりで目の前の苦悩を受け入れ、苦悩を乗り越える勇気や、苦悩を通して発見する光みたいなものを信じて生きた方が楽しいと思います。 

便利で楽をする事に慣れ、そう思えない心の貧しさを肥大化させたままでは、いつの時代のどんな家に生まれても同じようなものと思います。